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あんた誰?って思うと思うので、 これから簡単に自己紹介をします。 私は 「全国大会で何度も優勝しているバレーボールチームでプレーしていた」 「元Vリーガーのコーチとタッグを組んでバレーボールチーム指導」 「バレーボール全国大会出場を指導者・選手時代に経験」 「初心者高校女子バレー部へ赴任後半年でリーグ戦優勝」 という経験をしてきています。 一方では、 「校内トップの嫌われ教師」 「暴言は日常茶飯事」 「スポーツは厳しくしないと勝てないでしょマインド」 「他責マインド」 という人間💦でした。 大阪生まれの40代。 子どもが二人いてます。 現在は育児中です。 教員時代はクズ監督としてバレー部の顧問をしていました。 おこがましいですが、 またバレーボールの指導者に戻れる日々を夢見て 研鑽に励んでいるところです。 勉強もせずに 感覚で指導をしていた時代の 私の指導者としての礎は、 自分自身の選手時代の経験が90%・・・ 学ぶことを諦め、 自分の感覚で指導していましたが・・・ 本を買って学んだこともありますが、 販売書籍では 指導をどうしたらいいのかがわからず 諦めました。 ある時その感覚の指導から脱却する出会いがありました。 それは・・・ との出会いでした。 そして私は 練習の時には びっちりと二人に密着して、 ノウハウを全て盗みました❣ それは自分色を隠し、 ゆだねる姿勢で学び、 絶対に指導者として成長するという決意でした その後 学んだノウハウを試せる機会があったので、 試してみると・・・・ 三年間、公式戦で勝てなかった 高校女子初心者バレーボールチームが、 私の赴任後半年でリーグ戦で 優勝してしまったのです。🎉🎊 「なんでや~❣初心者やろ~「 「しかも高校で初心者~!?」 と、思われた方のために そのあたりのことを このブロブにしたためています。 Table of Contents 小5からバレーボールを始め 毎日体罰を受けて都道府県3位 当時の全国大会県予選が終わって 卒部までの間に、 このチームは崩壊しました。。。 恐怖で頑張ってきて 目の前の目標がなくなって、 モチベーションが続かなかったんですね。 前にも書きましたが、 このチームの体罰は日常茶飯事でした。 バレーを始める前も家では、 毎日母親に怒られながら 生きている小学生だったので、 怒られることには あまり抵抗はありませんでした。 もともと勉強が苦手なタイプということと、 「親に叱られる」という理由で 自分の行動を決めていたので、 バレーボールを始めても、 動機や理由は「怒られるから○○する」でした。 →動機や理由がだいぶやばいでしょ。 大人依存マインド がっちり備えた小学生でした。 反対に、 言われたことは何とか出来ていたけど、 不器用なのでバレーでも だいぶ怒られていました。 小学校6年生で158CMの長身 の私が選んだ進路は、 地元の中学校ではなく、 バレーボール地方留学。 →海は渡りました。🚢 中1から寮に入って、練習と授業の毎日。 この学校は中学女子バレー部を創部するということで、一期生で迎えてもらいました。 監督は当時25歳男性でした。 目標は全国大会出場! 部員は7名、全員中1! そして毎日猛練習。 幸か不幸か、外コートなる場所が体育館の外にあり、 監督が怒ると外コートでワンマン。。。 私は、膝を擦るのが嫌で嫌で、みんなの後ろで適当に演技しながらけがをしないように守っていました。 心の中は、超冷めていました。 「意味ないやろ?」って。 そして、中1の時は県で2位でしたが、 中2の全中予選で なんと一回戦負け。 監督は試合後怒ってしまって、 そのあとチームでの不協和音から収拾がつかなくなり 私と私の同級生6人は 1人の部員を置いて 学校をやめて地元へ戻っていきました。 つまり、一期生は幻になったのです。 寮に入ったにも関わらず、退学しました。 私は元々、地元中学へは進学したくないため私立へ行きました。 地元中学には行きたくないので、親の努力で近隣の中学校に転入することにしました。 転向した先の中学は、田舎の穏やかな雰囲気。 もちろんバレー部に入部し、指導者をみるとこれまた穏やかそうなおじさん。 「ちょろいなぁ」と内心。 中学から寮で軍隊みたいな生活をしていたので、公立の先生など恐れることもなく・・・ 転校早々、 私に何か注意してきた先生に対して 黒板をたたいたりして威嚇したり、 悪目立ちしてエネルギーを発散させていました。 数か月すると新しい環境になれ、バレーボールに気持ちが向き始めると落ち着き楽しく公立中学のフリーダムを満喫していました❣ 転校した中2の秋は、市の大会で二回戦負けチーム 指導者は、 「俺はトップの指導者や」 と自分で言っているも、 私は指導者に従順に調教されてきたので疑いもせず・・・ 指導者が冬休み前に 「この冬休みで100セットこなす」 と宣言し、私たちの目標の県ベスト4を目指すことになりました。 よく考えたら、行けるかどうかなんてわからんのに、よく言うたもんですが。。。 ○補助アタッカー レフト 167㎝・160㎝ ○エース センター・ライト 165㎝・163㎝ ○レシーバー 155㎝ ○セッター 158㎝ ○補欠多数 大型気味ではありますが、点数取っていたのは、エースの二人 補助アタッカーといわれる二人は、レシーブも危なげな二人。 私立でバレーをしていた私からすると、正直素材はいいとは言えない。 でも、この時の指導者は 「全国に行ける」 と確信したとか。 そして、その半年後、県で準優勝することができました。 総勢400チームの参加の中でしたが、この時のチームの練習が楽しくて、多分バレー人生において一番思い出深いチームです。 そして、準優勝できた理由は、 「先生の戦術」 なんだと今では言い切ることができます。 メンバー的にも決して素材が揃っていたわけでもなく、 普通の公立中学校の部活動だったし このチームが勝ち上がったことがほかのチームからして不思議なくらいです。 実際には全中予選後 「なんで○○中が二位なん?」 といわれたほどです。 特別待遇のスポーツ推薦 授業料半額免除は、学年で私が最高の待遇でした チームの中心選手でエースでキャプテン 都道府県大会では常にベスト8の戦績を保つ 大学リーグ戦一部優勝 最終学年ではキャプテン 依存マインドばっちりの私は、 自分で就職活動もできず、 教授が声をかけてくれて 卒業後の就職先が決まりました。 正直、大学の就職説明会に参加していても、話が理解できないし、どうしたらいいかもわからない状態。 まだ引退していなし練習もある中で どうやって就職活動をすればいいかもわからず、 ぼーっと過ごしていました。 大学卒業後すぐに常勤講師で公立高校に赴任するも、そこの監督には嫌われてしまったようでした。新参者のくせに実績もないのに選手に対して偉そうにものを言っていたことが原因かな?っと思っていますが。 そのあとは部活動があまり行われていない学校だったので自分の修行のため、クラブカップ常連の強いチームに加入させてもらいクラブカップ出場を果たすなどしていました。 ここでの活動は私のバレー観そのものを変えることとなり、同時に挫折も味わうこととなりました。 そんな経歴で初心者チームの監督をすることになり、また以前と同じように変わらず怒り散らしていました。怒るだけなので、選手は私を避けるし、私も改善しようと思ってなかったし、関係は最悪でした。 こんな感じで、指導のほうではさっぱりな人間でした。 選手との距離感がわからないからなるべく近寄らない 「怒られているうちが花」とかいって励ます 褒めることができない 選手が過呼吸になったら、甘えていると思っていた このような思考だったので、信頼なんてされていませんでした 初心者チームに対し勝てないと怒りまくっていた時代に、一人の指導者A監督と出会いました。 A監督は私の出身校を聞いて見定めてくれたようで、私を後継者として誘ってもらうことになりました。そして私立高校に採用されました。 私はその指導者の下でコーチとして下積みをしました。 監督として実績のある人だったのですが他競技出身ということで、バレーボール専門でバレー部の顧問をしているくせにチームを勝たせることができない私をこき下ろしつつも、バレーボールを教えてくれました。 私は、すべてを吸収したいという考えの人間だったことが幸いしてか、いいことも悪いこともすべて自分の経験として蓄積することができました。 今でも忘れられない名言が、 「〇〇高校(私の出身校)はやっぱり大したことないんやぁ。だって〇〇〇が指導してるんやもんなぁ」 「お前を呼んだのは、俺の買い被りやったなぁ」 と、さんざんコケにされてしまいました。 さらに、11歳からバレーばっかりしていた私ですので、学力のほうはさっぱりです。 その証拠としてこの方に言われたことが、 さすが名監督、よく観察されていました。 私は問題解決能力もないし、教員採用試験にも全敗やし、取柄は人より長く続けてきたバレーボールのみでした。 といっても、バレーボール指導者としてはただ自分の経験を押し付けて、信頼関係も築けないクズ指導者でした。 初めに出会った監督は、諸事情で自主退職。 監督の退職で、急遽私が監督に就任することになりました。 そしてその時、学校が独自に連れてきたコーチとの出会いがありました。 コーチのご両親は日本を代表する選手と指導者で、コーチはバレーボールでご飯を食べていた人。 でも監督は私、実績は断然コーチが上。 悩みつつ、コーチに指導のほとんどをゆだねた結果、バレーボールを学べたというメリットがありました。 私は、公式戦のタイムやメンバーチェンジはコーチの言いなり。 でも毎日体育館で選手をみていたのは私。 葛藤しつつも、結果的にはこの経験がのちの初心者チームで大活躍しました。 わたしにもいろいろあり、志半ばで前任校を退職。専任で雇ってもらっていたけど思い切ってやめることに。 捨てる神あれば拾う神ありといったもので(皮肉にも私を捨てた校長のことばですよ)、前々任校に再採用されることに。 それが、初心者チームに怒鳴りまくっていたあの頃に勤めていた中高一貫校だったのです。 中高一貫校は進学校だったので練習時間もネットの使用もほかの高校の半分ほどしか使えず。 中高一貫校の体育館事情は、普通の高校の倍の部活動で分けてつかうので、2面コートの4分の1しか使用できない日があったり、そんな曜日はもちろんネットは使えずという練習環境には恵まれませんでした。 そして私は、前任校で得たノウハウを試す時が来たとばかりに、そこでできなかったことや、やりたかったことの反省を生かして指導していきました。 そして、この一つも勝てなかったチーム(前任者もその前任者も)を、最下位のリーグ戦で優勝できるチーム作りの手助けをすることができました。 ここの県では、都道府県大会の一次予選と二次予選があって、一次予選は試合形式がリーグ戦で、優勝は昇格、最下位は降格の4部制のリーグ形式をとっていました。最下位グループは8チームのトーナメントになります。(最下位以外のリーグは4チームリーグ戦) 実は地味に最下位トーナメントで優勝するのは困難といわれていました。運もあるしトーナメントだし、いつもはすぐ負ける学校もたまにすごい経験者エースの新入生が入部していて突然優勝したりするので、どこの学校が優勝するかは当日でないとわからないようなトーナメント戦でした。 このチームの目標は上のトーナメント戦で優勝することで、前に優勝してから8年ほどずっと優勝から遠のいていました。 正直、しんどかったというより、選手たちといい関係を築きながら日々試行錯誤して、とても楽しく思い出になったチームでした。 もちろん、選手を罵ることも追い込むこともせず、選手のやりたい気持ちを尊重し奮い立たせることができた結果、優勝できたのだと思います。 中高一貫校の前の高校では、都道府県大会ベスト16が最高の戦績でしたが、初心者チームにも応用できたので、勝つための型という考えにたどり着きました。 つまり、レベルは違っていてもやっていることが的を外れてしまうと、勝てないのだということを確信しました。 このような過程があり、この経験の総まとめや今後の自身の発展のためにも研鑽を深めて、ブログにしたためていきたいと考えました。 そのほか、バレーボールの授業を5年ほど毎日中学生と高校生に指導していた経験も記事にできると思うので、そちらも参考にしてもらいたいと思います。 盛り上がりに欠けるというか、盛り上げるにはボールを落とさないことなのですが、落ちまくるのです。 そして、シケルんです。 そんなことも経験してますので、楽しみにしていてください。 クズ指導者を作り上げつつ・・・
【小学校時代】
【中学校時代】
中学時代その2
高校時代
【大学時代】
【卒業後】
自分の経験を選手に押し付けている
選手を褒めない
選手に対して偉そう
バレーボールの勉強しない
練習がきついのが当たり前ある指導者との出会い
「バレーの頭で考えるから、バレー出身の指導者は勝たれへんのや」
あるコーチとの出会い
理由はよくわかりません。多分大人の事情ですね。
尚且つ私より年上。
試合の責任は私。退職後中高一貫校へ再採用されバレー部の監督をする
非常勤講師週5日勤務の外部コーチで結果を出す
最後に
やよっぺさん、こんにちは。
こちらでもお世話になります。
よろしくお願いします。
長井さん(^-^)
いつもありがとうございます!
こっちの更新がなかなか進んでいませんが、どうぞよろしくお願いいたします。