【総復習!】日本女子バレー歴代エース 〜歴史を築いた9人のエース達

 

最初にみてね

やよちについて:私はバレーボールの指導者としても選手としても全国大会経験の元中高保健体育科教員。詳細はプロフィールへ。勝てない暗黒時代の長く続いた初心者チームを最下位の集まるトーナメント戦で二年連続決勝進出へ。選手が練習を主導し私が戦術を練る役割分担をすること1年。戦術は初心者チームにマッチしやすく得意分野は選手の意欲を掻き立てるメンバーチェンジ。

 

はじめに

バレーボールにおいて「エース」といえば、攻撃の中心であるだけでなく、チームの「要」とも言える存在ですよね。
言い換えれば、エース達の歴史そのものが、女子バレー史の「要」とも言えるのではないでしょうか?

本記事では、そんな歴代エースたちを総復習していきます!
注目の試合や大会前に、一度おさらいしておくことで、もっと本番を楽しめるはずです!

本記事では、歴代エース達の実力、個性、バックグラウンドを網羅しつつ、時系列順に解説していきます。
意外と知られていない豆知識も、随所に散りばめていますので、ぜひチェックしてみてくださいね!

1960年代

当時の世界バレーは、「赤い旋風」と呼ばれたソ連(現在のロシア)一強の時代でした。

そんな中、突如現れた日本の若い女性たちによって、世界の形勢がひっくり返ります!

谷田 絹子 (全日本女子バレー・元祖エース)

生年月日: 1939年9月19日 (※2020年12月4日に逝去)
身長: 168cm
所属チーム: 日紡貝塚(〜1964年)

1964年の東京五輪、その圧倒的な強さで世界に恐れられた当時の日本女子バレーチーム。
通称「東洋の魔女」

その攻撃の主柱だったのが、谷田絹子選手です。

「回転レシーブ」に代表される守りに重きを置いたプレースタイルのなか、

高い技術力と、ジャンプ力を活かした鋭いアタックでチームに貢献した実力派アタッカー

チーム内ではムードメーカーとしても、長年チームを支えました。

「東洋の魔女」とは?

1961年の欧州遠征時に日本チームが24連勝した際、

現地スポーツ紙が「東洋の魔法使い」といった見出しをつけて紹介したのが、きっかけだったのだそうです。

谷口さん自身、はじめは「東洋の魔女」という呼び名は、悪役のようで嫌いだったそうです。ただ、チームで話し合った時に、「普通の人にはできないことをやり遂げたから魔女なんだ」という結論になり、名前も受け入れれるようになったのだとか。

この「東洋の魔女」の活躍により、日本では一大バレーブームが起こりました。かの有名な漫画「アタックNO.1」「サインはV!」なども、このブームがきっかけで生まれた名作たちです。

【主な実績】


1960年:欧州遠征で22連勝を果たす。

1962年:世界選手権にて、当時最強国ソビエト連邦(別名「赤い旋風」)に勝利し、世界制覇。

1964年:東京オリンピックで、再びソビエト連邦を破り、大会全勝で金メダルを獲得。


【略歴】

大阪府池田市出身の谷田さんは、池田駅前の牛乳配達店の娘として生まれました。

お兄さんがバレーのコーチをしていたこともあり、バレーには小さい頃より馴染みがあったとのだそうです。

学生時代は「スポーツの名門」と呼ばれていた四天王寺高校で過ごします。

当時から、「高校生三羽鳥」の一角に数えられる実力の持ち主でした。

高校卒業後、後の「東洋の魔女」の母体となった日紡貝塚に入社します。

(※同じ高校出身で、後の日本代表メンバーとなった磯辺サタ、松村勝美、松村好子も同時期に入社しています。)

入社後は、「鬼の大松」と呼ばれた大松監督のもと、仕事が終わってから、毎日深夜まで10時間の練習づけの日々だったそうです。。

谷田選手は監督に「いちばんしごかれ、怒られた選手」だと自称しています。

1970年代

日ソの激しい戦いは続きますが、1968年のメキシコシティ五輪、さらにはミュンヘン五輪と続き、惜しくもソ連に優勝の座を渡してしまいます。

「屈辱の銀メダル」と呼ばれ、厳しい空気が漂う中、突如として「新・東洋の魔女」と呼ばれる選手たちが頭角をあらわします。

白井 貴子   (バレーの常識を覆した!初代・革命型エース)

生年月日: 1952年7月18日
身長: 180cm
所属チーム①: 倉紡倉敷(〜1973年)
所属チーム②: 日立(〜1976年)

愛称「ビッグ」の通り、元祖大型エースアタッカーで有名な白井貴子選手

持ち前の長身とパワーを活かし、女性選手には不可能と呼ばれたAクイックなども、次々と可能にした革命的選手です。

そんな白井選手の必殺技といえば、名セッター松田紀子と生み出した「ひかり攻撃」

ひかり攻撃は、先に白井がジャンプし、その最高到達点に目がけて松田が平行のジャンプトスを繰り出す。白井と松田に0.01秒でもズレが生じればスパイクは不発になってしまう電光石火のプレーである。

吉井妙子『日の丸女子バレー』文藝春秋 2013 118p

※山田重雄監督が、海外選手に肉体的パワーで遅れをとらないために取り入れたのが、運動科学に基づいたウェイトトレーニング。当時のバレー上達のセオリーが「忍耐」と「根性」とされている中で、この試みが功を奏し、「ひかり攻撃」「稲妻落とし」のようなパワーを活かした今までにない技が生まれたのです。

【主な実績】


1972年:ミュンヘン五輪で銀メダル獲得。

1976年:モントリオール五輪でソ連に決勝戦で勝ち、金メダル獲得。

(※3セットをわずか55分で終わらせ、オリンピック決勝戦史上に残る最短時間となった。)

1977年:ワールドカップで金メダル獲得。


【略歴】

岡山県岡山市出身。

ご両親が朝鮮半島のご出身で、バレーは中学2年生の時に始めました。

その後、高校を中退し、18歳で倉紡倉敷に入社します。この時、同社バレーチームの白井省治監督の養子に入り、日本国籍を取得します。

ミュンヘン五輪で金メダルを逃した後、白井選手(当時20歳)は、日本バレーの拾ってつなぐスタイルに限界を感じ、引退を心に決めていたそうです。

(外国選手に劣らない身長とパワーがあるにも関わらず、当時ディグを苦手としていた白井選手。自分の性質と日本のバレースタイルに不一致を感じていたのかもしれませんね。。)

しかし、その後、山田監督の半ば強制的なスカウトにより白井選手は、日立へと移籍することになります。

この移籍先となった日立のチームで自分の強みを引き出してくれるチームメイトと、監督のバレーに対する新しいアプローチ法により、白井選手は日本を代表するエースアタッカーとして開花することになります。

名セッター・松田紀子について
エース白井貴子を語る上で、名セッター松田紀子の存在を避けて通ることはできないでしょう。
彼女の強みは、何と言っても、その圧倒的な「スピード」「正確性」を誇るセットでした。

もともとアタッカーだった松田選手は、日立に入ってからセッターへと転向し、
激しい訓練の末、自分なりのセッタースタイルを確立しました。

彼女のセットがあったからこそ、白井貴子の「ひかり攻撃」、前田悦智子の「稲妻おろし」が可能になったとも言えるでしょう。
モントリオール五輪優勝の原動力となった松田選手は、「ネット際の魔術師」とも呼ばれ、日本バレー史上でも有数の名セッターとなりました。

1980~90年代

1979年のプレオリンピックで優勝したこともあり、当時、五輪でのメダル獲得への期待感が非常に高まっていた日本。

そんな中、ソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、国際社会の波乱が女子バレー界を直撃することになります。

1980年後半以降は、各国のバレーの実力が高まり、

今まで以上に競争が激化する中、日本チームは「低迷期」へと突入していくことになります。

そんな苦しい時代の中でも、懸命にチームを支えてきたエース達を紹介します。

横山 樹理 (全国に愛された「悲運」のエース)

生年月日: 1955年3月9日 
身長: 174cm
所属チーム: ユニチカ(〜1982年)

「ジュリスマイル」で親しまれたチャーミングな笑顔と、

豪快なスパイクで日本中を魅了した横山樹理選手

ダイナミックなフォームゆえに、ネットから離れた地点からの中距離スパイクを得意としました。身体を大きくそらせて、腕を大きく構えながら打つスパイクは、相手のブロックを吹き飛ばすような貫通力だったと言われています。
(キャラと攻撃力のギャップがすごいですね。。笑)

エースとしての実力はもちろん、

チームの主将でもあった彼女は、常にメンバーの精神的主柱としてチームを牽引し続けました。

【主な実績】


(1976年:モントリオール五輪で控え選手として参加)

1978年 : 世界選手権で銀メダルを獲得。

1980年 : モスクワ五輪では、米国主導のボイコットに巻き込まれ日本チームは出場できず。

1981年 : ワールドカップで銀メダルを獲得。

1982年 : 世界選手権で4位。


【略歴】

福岡県北九州市出身の横山選手は、中学よりバレーを始めました。

モントリオール五輪後では、控え選手として参加します。

白井らの勇姿を目の当たりにしただけに、モスクワ五輪への思いがひときわ強かった横山選手。(本人は「先輩たちに取ってもらった金メダルという感じだった。」と後々語ってます。)

そんな中、ソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、米国をはじめとした西側諸国が次々とオリンピックへの不参加ボイコットを始めます。

結果的に、日本政府もボイコットに呼応する形で、モスクワ五輪に不参加表明を出すことになります。

長年、悲願だったオリンピック。当時25歳だった横山選手にとって、最期の五輪になるはずでした。オリンピックに出場できないと聞かされた時、「心が折れた」と語っています。

その後も、めげずにバレーボールを続けた横山選手。

1981年のワールドカップで銀メダルを獲得。さらに、足に怪我を負いながらも、1982年の世界選手権で4位を飾り、選手人生に幕を閉じます。

その後は、次世代のバレー選手を育てるべく、指導者として活躍されています。

モスクワに行けなかったのは悔しいし、忘れられない。ただ、あそこで辞めてたら、もっと後悔があったと思うね。40年たった今、良いバレー人生だったと思えますよ。

『<1980年からの手紙 幻のモスクワ五輪代表>バレー女子・西川樹理さん』

東京新聞(2020年4月3日掲載)

「ジュリスマイル」誕生秘話
バレーを始めて間もなかった中学時代。
バレー部の顧問から言われた一言。

「苦しそうな顔を見せると相手につけ込まれる。どんな場面でも笑顔を忘れるな。」

この言葉がきっかけだったのか、その後も、ジュリが試合で笑顔を忘れることはありませんでした。
苦しさや緊張を見せず、チームの心の拠り所でもあったジュリ。
そんな彼女の笑顔は、あるいは彼女なりの、自分自身との戦いの裏返しでもあったのかもしれません。

江上 由美 (日本が誇る「初代・万能型エース」)

生年月日: 1957年11月30日
身長: 175cm
所属チーム①: 日立(〜1984年)
所属チーム②: 小田急ジュノー(〜1988年)

エースとしては小柄な体格ながら、

海外からも「世界的センタープレイヤー」と一目を置かれた江上由美選手。

身長というハンデがありながらも、世界的アタッカーになりえたのは、その卓越した速攻技術とあらゆる状況に対応できる万能性だったと言われています。

攻撃面では、タッチを得意としており、スピードも加えた、幅広い攻撃バリエーションで相手チームを翻弄しました。

私の時代は、日立も全日本もセッターが固定されていなかった。そうすると、それぞれのトス(セット)に合わせた打ち方を考えなければいけない。色んなセッターの球質に合わせようと努力していたら、知らず知らずのうちに攻撃の幅が広がったのかも。。

吉井妙子『日の丸女子バレー』文藝春秋 2013 130p

また守備面でも優れており、持ち前の視野の広さと、絶妙なタイミングで跳ぶブロックにより、チームの危機を何度も救ったと言われています。

ディグ、サーブでも実力を証明しており、そのバランスの良さは後々の木村沙織に通じる「初代・万能型エース」とも言えるのではないでしょうか?

当時の日本代表チームを率いていた山田重雄総監督からも、

「江上が6人いれば金メダルがとれる」と言わしめました。

【主な実績】


1977年:W杯で日本代表デビューし、サーブ賞を受賞。

1978年:世界選手権にて銀メダル獲得

1984年:ロサンゼルス五輪でキャプテンをつとめ、銅メダル獲得。

1988年:ソウル五輪にてキャプテンをつとめ、4位。


【略歴】

1957年東京都世田谷区出身。

江上選手は中学生のときに「アタックNo.1」に憧れて、バレーボールを始めたそうです。

東京の松陰高校では、春の高校バレーやインターハイで活躍し、1976年には日立に入社します(モントリオール五輪と同年)。

入社初年度からリーグ新人賞を受賞し、翌年のW杯には全日本のレギュラー初選出を果たします。

ただ、この時期の日立は、主戦力だった白井貴子、松田紀子らが引退し、チームとしての低迷期で苦しんでいました。

そんな中、主将を任された江上選手は、

名選手らの穴を埋めるため、常にプレッシャーにさらされながらも、懸命にチームの牽引に努めます。

その後、誰も予想しなかったモスクワ五輪の日本チームの不参加表明

長年準備してきた目標が突然喪失してしまいます。

「翌日、朝5時くらいに起きて、北海道のどこまでもまっすぐな道を、ひたすら走ったのを覚えています。止まっていられなかった。悔しい気持ちや悲しい気持ちと、先に進みたい、もっとうまくなりたいという思いがありました」

『【リスタート・東京五輪】バレー元日本代表・丸山由美さん、モスクワ幻の代表からロスで銅メダル』

サンスポ(2020年4月17日掲載)

ある意味、逆境続きのバレー人生だったと言えるでしょう。

そんな逆境にさらされながらも、決して練習を怠ることがなかったからこそ、

江上選手は、選手としてのタフさと、類まれな技術を得たのかもしれません。

中田久美のセットの「育ての親」
江上選手といえば、
「天才セッター」中田久美選手を育て上げたことでも知られていますね。
中田選手といえば、現在オリンピック日本代表チームを率いている、あの中田監督です。


【「天才セッター」中田由美プロフィール】

1965年9月3日東京都・練馬区生まれ。

15歳にして、史上最年少の全日本デビューを果たし、後に「天才セッター」と呼ばれた中田久美選手。

モントリオール五輪を率いた山田重雄監督のバレー教室「LAエンジェルス」で才能を見初められ、1981年には日立に入社。

通常、セッターが一人前になるには、最低5年の練習が必要とされてますが、中田選手はなんと2年技術をマスターしています!その驚異的な成長力に加え、応用の効くセット技術により、100種類以上の攻撃パターンが可能になったと言われています。

女子バレー史上初となる五輪3回出場を果たし、長年日本代表チームの司令塔として活躍しました。


自身のセットについて、中田選手はこう語ります。

ロス五輪までのトス(セット)は(江上)由美さんに育てられた。由美さんは、世界一の速さを持ったアタッカーだった。由美さんのスピードに負けないよう私も必死でトスを上げた。私のトスは由美さんの作品でもあるんです。

吉井妙子『日の丸女子バレー』文藝春秋 2013 130p

その中田久美選手がオリンピックチーム(2021)の監督として、現在チームを率いていることを考えると、江上選手の系譜は新しい世代へと脈々と受け継がれているのかもしれませんね。

大林 素子 (愛嬌も攻撃力も抜群!天才セッターの相棒)

生年月日: 1967年6月15日
身長: 180cm
所属チーム①: 日立(〜1994年)
所属チーム②: イタリア・セリエA(〜1995年)
所属チーム③: 東洋紡オーキス(〜1997年)

80年代後半を代表するエースといえば、大林素子選手でしょう。

名セッター・中田久美と並び、長きにわたって日本女子バレーを支えました。

そんな大林選手の得意技といえば、182cmの長身と左利きを生かしたブロード攻撃。とにかく切れ味の良いスパイクで、コートの右端から左端までかっ飛ぶ攻撃は「モトコスペシャル」と海外勢からも恐れられたそうです。

選手人生でメダルを獲得することはありませんでしたが、その実力はお墨付きです。

また、大林選手といえば、その明るい笑顔ポニーテールがトレードマークでした。セッターの中田選手によると、「素子」はとにかく奔放な性格で、中田選手のセットを「打てない!」とふくれっ面で文句を言われたこともあるのだとか。

そんな大林選手だったからこそ、中田選手といいコンビになれたのかもしれませんね!

【主な実績】


1985年:高校生の時に全日本代表に選出。

1988年:ソウル五輪に出場

1992年:バルセロナ大会に出場

1996年:アトランタ大会に出場

1995年:日本人初のプロ選手としてイタリア・セリエAでプレー


【略歴】

東京都小平市出身。

幼い頃はタレントに憧れていた大林選手。

小学生の頃、背が高かったことから、「デカ林」とイジメられたこともあるそうです。このような経験もあり、幼い頃より身長にコンプレックスがありました。小学生6年生になる頃には身長は170cmだったそうです。

そんな中、「アタックNo.1」の再放送を見たのをきっかけに、コンプレックスだった長身が武器になるのでは、と中学からバレーボール部に入部します。

アニメ主人公の「鮎原こずえ」みたいになって、いじめた子たちを見返してやると思っていたのだとか。

中学2年の時に手にしたバレー雑誌で、たまたま山田重雄監督率いる日立製作所のバレーチームの練習場が家の近所と知り、監督に手紙を書きます。

すぐ監督から返事があり、それから毎日のように中学の部活の後に日立の練習場に通う日々が始まります。江上由美選手や、後々日立同期となる中田久美選手と出会ったのはこの頃だったと言います。

引退後は、バレーボール中継の解説のほか、タレントや女優等としてもご活躍されています。

2000年代

長く続いた低迷期を経て、

日本チームは、世界選手権(2010)での3位入賞2012年のロンドン五輪での銅メダル獲得など、ついに低迷期からの脱却を果たします!

その背後には、これまでの日本バレーの常識をひっくり返すエース達の存在がありました。

大懸 郁久美(圧倒的守備力!鉄壁のエース)

生年月日: 1976年1月1日
身長: 173cm
所属チーム①: NECレッドロケッツ(〜2001年)
所属チーム②: 久光製薬スプリングス(〜2007年)
所属チーム③: NECレッドロケッツ(〜2009年)
所属チーム④: パイオニアレッドウイングス(〜2011年)

大懸郁久美選手は、大林素子選手からエースのバトンを受け継ぎ、

90年代から2000年代を駆け抜けたエース。

選手としては、身長に関係なく、スパイクはもちろん、サーブ、ディグ、全てをこなす万能型エースでした。

エースといえば、普通はアタックが取り上げられがちですが、

大懸選手に関していえば、その優れたサーブとディグ力がなにより有名でした。2000〜2001年の国内リーグでは、レセプション成功率87.4%と、リベロ並みの数値を叩き出しています。現に、2004年のアテネ五輪予選では、リベロに転向していますね。

では、アタック面はというと、

173cmとエースにしては小さい体格を十分にカバーするだけのテクニックを持ち合わせていました。

ジャンプ力を生かした力強いスパイクから、ブロックのワンタッチを狙ったスパイクまで、器用にこなしました。

【主な実績】


1996年:アトランタ五輪に最年少メンバー(20歳)として出場

1998年:国際バレーボール連盟より1997年度世界ベスト6に選出。

1998年:アジアバレーボール連盟より、アジアベストプレーヤーに選出


【略歴】

北海道旭川市で3人姉妹の次女として育ちました。

小学4年生の頃よりバレーを始め、小6の頃にはバレーの全国大会で優勝を果たします。

高校(旭川実業高校)でもバレー部に所属し、初年度より主力選手として活躍しました。高校卒業後の1994年に、実業団のNECレッドロケッツに入団。

3年後の黒鷲旗大会でMVPを獲得するなど、全国レベルで実力が認められるようになります。

1996年に全日本代表として選出されたのち、多くの試合で活躍をする一方で、

故障が絶えなかったことから、2001年に一度引退します。

しかし、監督から直々に声がかかったこともあり、2004年にアテネ五輪にて全日本への復帰を果たします。

結果的に、メダルを獲得することはかないませんでしたが、いずれの試合でも

小柄ながらもチームを支える大黒柱として活躍しました。

高橋 みゆき(海外も恐れた「ニッポンの元気印」)

生年月日: 1978年12月25日
身長: 170cm
所属チーム①:
NECレッドロケッツ(〜2009年)
所属チーム②: イタリア・ヴィチェンツァ(〜2005年)
所属チーム③:
NECレッドロケッツ復帰(〜2009年)
所属チーム④: トヨタ車体クインシーズ(〜2012年)

「日本の元気印」と呼ばれ、

チームを明るく盛り上げた髙橋みゆき選手。

対戦国も必ずマークすると言われている髙橋選手。

それだけ海外勢からも「脅威」と見なされている髙橋選手ですが、実力はどのようなものだったのでしょうか?

髙橋選手の得意技といえば、ブロックアウト(相手ブロッカーの手にボールを当て、コート外に出すテクニック)が有名ですよね。

170cmとアタッカーとしては小柄ながらも、単に一本調子のブロックアウトをするのではなく、相手国の出方を見極めて、柔軟に対応する分析力と応用力を兼ね備えていました。

例えば、2007年のW杯韓国戦では、髙橋選手のブロックアウトを警戒した韓国勢が、あえてブロックを下げるという作戦に出たのが有名ですよね。

これを見た髙橋選手は、ストレートコースでスパイクを打ち込むことで、相手の裏をかきます。不意をつかれた韓国勢は、あわててブロックを展開しますが、得意のブロックの隙間を狙ったアタックで、髙橋選手の独壇場になったというエピソードもあります。(ブラジル戦でも同じような展開がありましたね。)

アタックはもちろん、守備面でも定評のある選手でした。

【主な実績】


2000年:22歳で全日本代表に選出

2001年:ワールドグランドチャンピオンズカップにて、銅メダルとサーブ賞を獲得。

2003年:W杯で合計123点を奪取し、スパイク決定率4位の活躍。

2004年:アテネ五輪に出場

2005年:イタリア・セリエAでプレー。エースとして活躍。

2008年:北京五輪に出場


【略歴】

山形県山形市出身。

ご家族がバレーボール一家だった髙橋選手(父がバレーボール小学チームのコーチ、母が元バレー選手)。気がついたら、自然とバレーをしていたそうです。

中学時代は全日本中学校バレーボール選手権大会に出場、高校ではインターハイや春高バレーにも出場と、活躍していました。

高校卒業後の1997年、大懸選手と同じNECレッドロケッツに入団します。

当時の髙橋選手は、チーム練習で手を抜くことから「手抜きのシン」と陰口を叩かれたこともあったそうです。監督より「上手いだけの選手はいらん」と言われ、改心したと言われています。

NEC入団後、3年目(2000年)には新人賞を獲得します。

同年、日本代表に選手された髙橋選手は、同タイプのアタッカーだった大懸選手に「小さいなりにどう戦うか」教わったそうです。

栗原 恵(バレー低迷期の夜明け!「プリンセスメグ」)

生年月日: 1984年7月31日
身長: 187cm
所属チーム①:
NECレッドロケッツ(〜2004年)
所属チーム②: パイオニアレッドウィングス(〜2011年)
所属チーム③: ロシア・ディナモ・カザン(〜2012年)
所属チーム④: 岡山シーガルズ(〜2014年)
所属チーム⑤: 日立リヴァーレ(〜2018年)
所属チーム⑥:
JTマーヴェラス(〜2019年)

髙橋みゆき選手から「最高(サイコウ)を目指せ」という意味で、「コウ」の名前でも呼ばれた栗原選手。

10代で日本代表デビューしながらも、その攻守ともに確実な実力から、女子バレー界を沸かせました。

「高く跳び、強く打つ」アタックは、バレーのエースとしてはごく自然なことのようですが、当時、技術派のエースが続く中で、栗原選手は「久々の正統派アタッカー」とも呼ばれました。

187cmの長身を活かし、しなやかなフォームとともに繰り出される強力なスパイクとともに、守備でも活躍する場面も多々ありました。

また、W杯2003年には、10代の高身長選手が両レフト対角を担当するということが前代未聞だったということで、栗原選手大山加奈選手「メグカナ」として注目されたこともありましたね。

2回の五輪では大いに活躍したものの、

度重なる膝の故障で、3度目の五輪には出場できなかったという苦しい経験もしました。

【主な実績】


2001年:17歳にして、全日本代表に選出

2003年:NECレッドロケッツ入団後、黒鷲旗大会で若鷲賞を受賞。

2004年:アテネ五輪出場に大きく貢献。5位ランクイン。

2008年:北京五輪でも中心選手として活躍


【略歴】

広島県江田島市出身。

バレーを始めたのは、小学4年生の時に、父がコーチをしていたバレーチーム入団がきっかけでした。小学校卒業後、地元の中学に進学しますが、兵庫県の大津中学校に練習見学した時、そのレベルの高さに衝撃を受けたそうです。

それ以降、大津中学に転入する形で、より高いレベルのバレーを志すようになります。

山口県の三田尻高校入学後は、1年の頃よりエースとしてインターハイ、国体、春高バレー三冠を飾るなど、チームの勝利に大いに貢献しました。

この頃の栗原選手は優勝して、「嬉しい」と感じることはあまりなく、ひたすらエースとして「負けられない」という気持ちに突き動かされていたそうです。

翌2001年には、日本代表に選出されることになります。

「メグカナ」の表と裏

女子バレー低迷期と呼ばれていた中で、「メグカナ」と呼ばれ、

その復活のシンボルともなった大山加奈選手栗原選手

当時10代の2人が両レフト対角を組むということは、女子バレー史上とても稀なことで、単に珍しいだけでなく、その実力からも、全国で大きな話題になりました。

後々お二人とも語っていますが、期待される分、日の丸を背負うプレッシャーは相当なものだったようです。コンビとして扱われながらも、メディアからライバルとして扱われることに辟易する場面を多々あったようですね。。

 

木村沙織(新たなステージへ!ミラクルサオリン)

 

生年月日: 1986年8月19日
身長: 185cm
所属チーム①: 東レアローズ(〜2012年)
所属チーム②: トルコ・ワクフバンク・スポーツクラブ(〜2013年)
所属チーム③: トルコ・ガラダサライ・ダイキン(〜2014年)
所属チーム④: 東東レアローズ(〜2017年)

日頃は、ほんわかとしたキャラながら、

日本バレー史上稀にみるアタッカーとして名を馳せた木村沙織選手

木村選手といえば、攻守全てをこなせるオールラウンダーとしての一面と、

「ここ一番」という場面で発揮する圧倒的得点力を誇るエースの一面がよく知られていますよね。

ただ、そんな木村選手も「私はスパイクがすごいとか、ディグがすごいとか、何かがずば抜けているという選手ではなかった」と振り返っています。かつては、相手国のサーブを拾うことができず、相手から狙われたこともしばしばあったのだとか。

そんな自分の弱みを克服するため行った猛練習の日々。それが20代後半になり、突然開眼するような経験があったのだそうです。

アテネ五輪では、持病の腰痛で出場機会がほとんどないという苦い経験もありながら、その経験があったからこそ、メダルへの強い執着が生まれたというエピソードもあります。

(苦い経験も含め、)あらゆる経験をバネにしてきたからこそ、あの「木村沙織」たりえたとも言えるかもしれません。

2012年のロンドン五輪では、28年ぶりの銅メダル獲得の原動力となったエースとして、日本バレー史に名を残しました。

当時のチームメイトからは「沙織さんは、とにかくバレーボールを楽しくやる人。楽しそうだから、見ている側も楽しくなってしまう。」というような声もありました。

【主な実績】


2003年:全日本代表として選出。(当社はセッター)

2003年:ワールドカップにて5位ランクイン。

2004年:アテネ五輪にて5位獲得。初のスタメン出場。「スーパー女子高生」でブレイク。

2006年:世界選手権にて6位ランクイン。

2007年:ワールドカップにて7位ランクイン。

2008年:北京五輪にて5位獲得。

2010年:世界選手権にて銅メダル獲得。

2011年:ワールドカップにて4位ランクイン。

2012年:ロンドン五輪にて銅メダル獲得 (※28年ぶりのメダル獲得)


【略歴】

埼玉県八潮市出身。

ご両親ともにバレー経験者という、バレーボール一家に生まれた木村選手。小学校2年生の頃には、早くもバレーボールチーム(秋川JVC)に入団していたそうです。

木村選手といえば、攻守ともに優れた選手のイメージですが、当時のチームが守備に重点を置いていたこともあり、ひたすらディグの練習の日々だったのだとか。この頃に培ったディグ力が、その後の選手人生で大いに助けになったと後々語っています。

中学校はバレーボール強豪校で有名な成徳学園に入学します。当時はライトや、センターとして、全日中バレーボール選手権優勝などに貢献します。

高校(下北沢成徳高校)では、ライトで主力選手をつとめ、2003年春高バレーで優勝を収めるなど、中高共に全国優勝を経験することになります。

春高バレーと同年、ついに日本代表として招集されることに。

高校生ながら、アジア選手権、ワールドカップで得点源として活躍したことで、一躍「スーパー女子高生」として全国的に注目されることになります。

最後に

いかがでしたか?

歴代エース達を知ることで、日本女子バレーのこれまでの歩みが見えてきたのではないでしょうか?

単にアタッカーとして優れているだけでは務まらない「エース」。

今後、どのようなエース達が登場し活躍してくるのか楽しみですね!

最後まで閲覧いただき、ありがとうございました!

最後にみてね

やよちについて:私はバレーボールの指導者としても選手としても全国大会経験の元中高保健体育科教員。詳細はプロフィールへ。勝てない暗黒時代の長く続いた初心者チームを最下位の集まるトーナメント戦で二年連続決勝進出へ。選手が練習を主導し私が戦術を練る役割分担をすること1年。戦術は初心者チームにマッチしやすく得意分野は選手の意欲を掻き立てるメンバーチェンジ。

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3件のコメント

初めまして。雪見と申します。

私がリアルタイムで見たのは高橋選手以降です。こちらに挙げられているのは総合力が高い選手になるのでしょうか?

攻撃力が高い選手は他にもいますが、レセプションもこなしディグも良い選手は貴重ですよね。木村選手に至ってはあの身長で守備も良いとは凄いです。

キムヨンギョンが世界有数の選手と言われているのも総合力が高いからですかね?攻撃面だけで見ればヨンギョンより高い選手は沢山いると思いますが、あそこまで総合力の高い選手は稀有かもしれませんね。

メッセージありがとうございます(^-^)
そうですね!
総合力とういところと、知名度やスター性すべてを総合して個人の価値観で書いています(^-^)

キムヨンギョン選手も素晴らしいいですね!

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